(あしあと その23・中央区の21・護国神社の2)
札幌護国神社の彰徳苑にあるたくさんの慰霊碑。その入り口にあってまず人目をつくのが、コンクリート製の頑丈な造りの「砲兵第七聯隊營門哨舎」です。
営門哨舎は、当時の兵団などに出入りする者に対する警戒を行う場所として使われたもので、戦中当時は旭川に所在した第7連隊衛門に置かれていました。哨舎の入り口は頑丈な鉄格子で封鎖されていますが、哨舎覗き込むと中に説明版がかけられているのが見えます。それには
「(1)此の哨舎は旭川第七師団野砲兵第七連隊(北部第6部隊)衛兵所営門前にあったものである
(2)戦後28年風雪に耐え国から道へ旭川市から企業へそして又旭川市へと世の移り変わりと共に第七師団最後の築造物哨舎を所有者の御配慮陸上自衛隊の御支援により原形のまま想い出と永久保存の目的でこの地に移設した
(3)哨舎とは兵団あるいは兵営の出入口に設けられ其の出入の者を警戒及び検問するため衛兵所より歩哨を配置するために設けられた 但し此の哨舎には平常これに入ることを許可されず特別の厳しい雨雪の時のみ使用を許可され亦歩哨は此の哨舎の位置より15歩以上離れることを禁じられていた 昭和48年7月25日移設 砲七会」
と書かれており、当時の軍隊の厳しい規律が偲ばれます。
私がこの説明版の字句を一生懸命メモしていた時に、そばで宮司の奥様が哨舎移設のいわれをお話ししてくれましたが、その説明によると、この哨舎は敗戦色が色濃い中で解体されるところ、アッツ島に進駐していた日本軍の全員玉砕となった日に、この哨舎に向かって日本軍の軍靴の響きが聞こえてきたことから、解体を見送って保存することとし、当地に移設される運びになったんだそうです。哨舎の脇に建てられた標柱の側面には、次のように記されています。
「本哨舎は昭和の初期 旭川野砲兵第七連隊営門に建設せられ 茲来 部隊警衛の中堅であり軍紀志気のシンボルである歩哨の立哨位置と戦時勤務に準ずる厳正な服務訓練を行いたる記念建造物であり 勤務した哨兵は無慮十数万萬と推定される。
砲兵第七連隊の前身である独立野戦砲兵大隊発祥の地として札幌に創設された記念碑と並び建立す。」
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