(あしあと その214・中央区の113・伏見の7)
伏見稲荷神社の境内の西側に並ぶ中で最後に紹介する碑は、「上田一徳翁之碑」です。自然石でできた碑の碑面には、「上田一徳翁之碑」と刻まれています。
碑の背面には、
「翁姓上田通稱萬平一徳其號也𦾔南部藩士明治四年 立志航本道相地円山墾破榛莽盡力於農事勤倹貯蓄 爾来三十有餘年家政頗富地方皆化其風翁資性温厚 篤實夙従村政有聲望克體地方制度之旨圖自治之発 達鞅嘗公共事業以造成村有財産大確立村治之基礎 功勞最顯著成是円山村民同然一辭相謀建(碑於閭門) 以頌其徳余爲作銘々曰
積徳行善 卓矣此翁 生財興産 良民(化風) 一家和楽 其楽融々 子孫頼慶 有始有終
明治四十三年五月 栗堂 荒興撰併書」
と、上田翁の功績が刻まれています。この漢文の下部には、銃弾の跡のような穴が穿たれていて、一部の文字が判読できない状態になっています。不明の部分の文字は、山崎長吉氏の著書「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道」に依り再現しました。
上田一徳氏は、通称を萬平といい、円山の開拓にあたり重要な役割を果たしました。氏は岩手県出身で、開拓当初の札幌における食糧難の解決を図るために、東北地方から農民の募集が行われたのを機に、弟である上田善七氏とともに当時の庚午三ノ村、現在の円山地区に入植しました。村の組頭に任ぜられた萬平は、村民による自主的な運営を図ることを目的に自治組織の確立に尽力し、洋式農法の導入や円山小学校の創設をはじめとする数々の功績を挙げました。
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