(あしあと その177・中央区の101・創成川の5)
南2条周辺を創成川沿いに歩くと、東1丁目側の歩道脇の植え込み前に説明板が立てられています。そこには、かつてこの場所に「クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)」があったことを示されています。
説明には、
「明治9年(1876)」7月31日、W・S・クラーク博士(1826~1886)が札幌農学校初代教頭として米国から札幌の地に赴任した。宿舎はここ南2条東1丁目にあった開拓使本陣と呼ばれる建物である。
宿舎の役目を持つ本陣は明治5年に竣工し、建築面積800余㎡の木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技士ホイラーなども居住していたが、12年に焼失した。
クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨み、また建設まもないサッポロのさまざまな施設等を視察している。
明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した。」
と記され、その左側に「本陣前で別れを告げて帰国するクラーク博士」と題された写真が転写されています。
クラーク博士の功績は数多あり、その足跡は北海道大学や羊ガ丘展望台、北広島市島松残されています。なぜクラーク博士が札幌農学校の初代教頭として赴任することになったのかというと、米国で教鞭をとっていた大学の生徒の中に、大学初の日本人留学生で、後に同志社大学を創立した新島襄がいて、彼の紹介を受けた当時の日本政府から強い懇請を受けたことによるのだそうです。
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