(あしあと その152・中央区の80・界川の2)
旭山記念公園の正門から坂道を下った途中に、歩道から公園下の遊び場に入る小さな石段があり、その脇に「樺太庁豊原中学校記念碑」と記された金属柱が建っています。
その記念碑はというと、石段を登るとすぐ右側に、大きな台座の上に大きな自然石の碑とその脇に副碑が並んで建てられているのが見えます。
向って左側の副碑には、
「建碑之記
我等同窓生、曾て昭和十八年上田校長の頌徳句碑の建立を図りしも戦時下の情勢により中断の止むなきに至る。然るに三十有余年を経て右碑が石巻市亀井石材店に現存せるを知り母校思慕の念に堪えず茲に我等が熱意を挙りて建立の素志を達成せるものなり。 母校は大正十四年開校、昭和二十二年僅か二十有三年の歴史を閉ず。その間細川上田、瓜田の三代校長を中心に子弟一如、教学甚だ興り、その盛名全国を馳す。
母校既になし。然れども母校は豊中教学の精神と共に我等が胸奥に厳然として存続す。
茲に右碑建立の由来を記し併せて母校の歴史と栄光とを永久に伝えんとするものなり。
昭和五十四年八月 樺太庁豊原中学校同窓会」
と刻まれており、この碑が建てられた経緯を表しています。
右側の本碑は、碑面に「薫風や 皇城南 一千里 純煌」の句と、背面に次のように刻まれています。
「純煌上田光曦先生 昭和二年母校第二代學(学)校長トシテ着任同十四年樺太師範學(学)校長ニ轉(転)セラルヽ迄十有三年夙夜大豊中建設ノタメ盡(尽)瘁セラル先生常ニ士魂ノ陶冶ヲ教學ノ中核トセラレ熱涙以テ至誠盡(尽)忠ノ大義ヲ説カル教ヲ先生ニ受クル者誰カ其ノ高風ヲ讃仰セサラン時方ニ大東亜聖戦下士魂ノ發(発)揚今日ヨリ急ナルハナシ茲ニ吾等門生一同先生欣慕ノ情ニ堪へス因ツテ頌徳ノ句碑ヲ建立シ報恩ノ微衷ヲ表ス
昭和十八年 八月 樺太廰(庁)豊原中學(学)校同窓會(会)」
「宮城縣(県)稲井 亀井久六謹刻」
上田光曦は、昭和2年1月に愛媛県立大洲中学校長から樺太庁真岡中学校長兼豊原中学校長として着任し、同年4月に豊原中学校長の専任となりました。純煌は上田の俳号であり、生前に数々の句を残しました。この大きな二つの碑を支える台座の正面には、豊原中学校の校章がはめ込まれています。
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