「島判官紀功碑」と副碑。

(あしあと その128・中央区の73・円山公園の2)

円山公園の裏参道を登ってすぐ、坂下野球場を左手に見て右側の公園の敷地内に、高さ約8メートルの堂々たる石碑がそびえています。これが北海道開拓の先駆けを任じた島義勇の功績を顕彰した「島判官紀功碑」です。

碑の上部に刻まれた「島判官紀功碑」の篆額は、碑銘の冒頭に「正三位侯爵鍋島直映篆額」と刻まれているように、島判官の出身である佐賀藩旧主鍋島直映によるものです。また碑銘は、第12代北海道庁長官を務め漢学に造詣が深かった中村純九郎の撰文であり、碑銘の末文に「正四位勲三等中村純九郎撰茲書」と刻まれています。昭和4年11月に建てられたこの碑は、碑銘そのものが490字にも及ぶ漢文で刻まれていて、その内容は島判官の先見と開拓の礎を築いた功績を謳っています。碑の側面には、「陸前稲井 亀井久六 阿部勇之烝 刻」と刻まれ、現在の宮城県石巻市の石工の手によって刻字されたものだとわかります。

また、この碑の正面に向かって左後方には「島判官建碑寄附芳名」の副碑が同時期に建てられ、碑面に氏名が刻まれた300人のほかに3,281人もの人が寄附に名を連ねたことが記されています。

さらに、この二つの碑の脇に小さな説明板があり、それには島判官の写真とともに

「島義勇とコタンベツの丘

島義勇は、明治新政府の方針にのっとり開拓使の判官として明治2年(1869年)11月(旧暦)札幌に入り、コタンベツの丘(今の円山公園のあたり)より原野をながめ、本府建設を構想した。彼は計画の半ばで去ったが、その雄大な構想は後に岩村通俊判官らによって引き継がれ、今日の札幌の街づくりの基礎となった。」

と記されています。北海道神宮社殿の近くに鎮座している島判官の銅像は、この時の勇姿を再現したものです。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

0コメント

  • 1000 / 1000