「北海道庁旧本庁舎」。

(あしあと その107・中央区の67・北海道庁の3)

札幌の歴史を語るうえで、絶対にはずすことのできない「北海道庁旧本庁舎」です。

道庁の正門から入ってすぐ左手に、「北海道庁旧本庁舎[赤れんが]のあゆみ」と題された説明板が建っています。それには、写真とともに赤れんが庁舎の変遷が簡潔に記されています。説明板の上から順に、

「開拓使誕生

1869(明治2)年、開拓使が設置され「蝦夷地」などとよばれてきた北辺の島にも「北海道」という名がつけられました。明治維新新政府は札幌に主都を建設し、その象徴として洋風の開拓使札幌本庁舎がそびえたちました。「開拓使10年計画」をたて本格的に開拓に着手した開拓使は、様々な施策を進めるため海外の新知識や高度な技術を必要とし、ホーレス・ケプロン(アメリカ)をはじめ、外国から多くの人材を招きました。」

「赤れんが庁舎完成

「開拓使10年計画」が終わるとともに、1982(明治15)年に開拓使は廃止されました。三県一局時代のあと、1886(明治19)年に北海道庁が設置され、時代は「開拓」から「拓地植民」へ移りました。1888(明治21)年に完成した北海道庁本庁舎(赤れんが庁舎)は、ネオ・バロック様式のレンガ造りで、頂には八角塔がそびえていましたが、その後撤去されました。」

「八角塔のない赤れんが庁舎

1909(明治42)年、火災で赤れんが庁舎は内部や屋根を焼失しましたが、焼け残ったレンガの外壁を基に1911(明治44)年に再建されました。再建された庁舎は、天井の模様打ち出しの鋼板、各階廊下にある大鉄扉、内側の戸を三枚折りにし窓枠に内蔵させる二重窓など防火と防寒施設を重視した建物でしたが、その頂に八角塔は設置されませんでした。」

「未来へ続く赤れんが

1968(昭和43)年、80年にわたる北海道庁本庁舎としての役割を新庁舎に譲った赤れんが庁舎を、北海道百年を記念して創建当時の姿に復元し、その歴史とともに未来へと継承していくことになりました。現在も庁舎として会議や研修などに利用され、また、多くの人々から「赤れんが」の愛称で呼ばれ親しまれています。[1969(昭和44)年国の重要文化財に指定]」

と記され、それぞれの説明の冒頭に当時の赤れんが庁舎の写真が掲げられています。さらにその説明の横には、「赤れんが豆知識」として、

「屋根に光る赤い星

この赤い星は「五稜星(五光星)」といい、開拓使を象徴するマークとして庁舎や製造品などに使われました。北の夜空に輝く北極星をデザインしたもので、札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)など同時期に建設された建物に見られます。」

「使われている赤レンガは約250万個!!

赤れんが庁舎のレンガは、かつての白石村・豊平村(現・札幌市)などで製造されたもので、その数は約250万個といわれています。建物下部の色の違うレンガは「焼き過ぎレンガ」といい、中には製造工程の刻印があるものも診られます。」

の2つのコラムが記載されています。

この説明板の隣にはもう一つ別の説明板があり、それには

「重要文化財 北海道庁旧本庁舎

四季折々に赤く映え、美しい姿を見せている北海道庁旧本庁舎は、“赤れんが”の愛称で広く道民に親しまれています。

赤れんが庁舎が産声を上げたのは、明治21年(1888)。この設計は、道庁の技師が担当し、アメリカ風ネオ・バロック様式のれんが造りで、建築資材の多くは、道産品を使用しました。当時は鹿鳴館と並ぶ国内有数の大建築物でした。

以来、新庁舎完成までの80年にわたり、北海道の拠点、道政の中枢としての役割を果たしてきました。

建物の頂にそびえる八角塔は、当時、アメリカで独立と進取のシンボルとしてドームを乗せる建築様式が流行していたため設置されたといわれています。

赤れんが庁舎は、明治42年(1909)の火災で内部及び屋根を焼失しましたが、幸いなことに、れんがの壁だけはほとんど無傷で残ったため、翌年には復旧工事に取り掛かり、同44年(1911)に再建されました。

その後、昭和43年(1968)に北海道百年を記念して、創建当時の姿に復元し、永久に保存することとなりました。

今日、これほどの優れた明治時代の洋風建築物は国内でも数少なく、翌44年(1969)3月、国の重要文化財に指定されました。」

と記されています。

赤れんが庁舎の北側には、石畳の敷地に石碑とレリーフが建てられており、それにも赤レンガ庁舎の史跡としての説明が刻まれています。

左右の石碑の間にあるレリーフには、

「史跡 開拓使札幌本庁本庁舎跡および旧北海道庁本庁舎

明治6年10月29日 開拓使札幌本庁本庁舎完成

明治21年12月14日 旧北海道庁本庁舎完成

昭和42年12月15日 指定

昭和43年9月2日 建設 文部省 北海道」

と刻まれています。

向かって右側にある石碑には、

「史跡

開拓使札幌本庁本庁舎跡および旧北海道庁本庁舎

昭和四二年一二月一五日指定

開拓使は、いわゆる蝦夷地経営のため、明治二年七月(一八六九年)、政府の機関として民部省内におかれ、明治五年九月(一八七二年)には、現在の北海道(明治二年八月一五日に蝦夷地を北海道と改称)全体を治めることとなった。

開拓使はいろいろ移り変わったが、明治五年九月(一八七二年)、開拓使札幌本庁ができ、現在の西四丁目通りから西八丁目通りまでと北一条通りから国鉄函館本線(北六条通り)までを敷地とし、明治六年(一八七三年)一〇月二九日、その本庁舎ができた。

開拓使札幌本庁本庁舎は、木造二階建、一階平面約五五〇平方メートルの建物で、屋上八角形展望層の上には北辰旗がひるがえっていたが、明治一二年(一八七九年)一月一七日の火災で焼けた。

開拓使は、明治一五年(一八八二年)二月八日に廃止され、三県一局時代をへて、明治一九年(一八八六年)一月二六日、北海道庁が設けられた。

北海道庁本庁舎は、明治二一年(一八八八年)一二月一四日にできたが、この建物は、れんが造り半地下一階、地上二階建て、屋上には直径約七、二七メートルの八角塔を設け、一階平面約一〇五三平方メートル、延べ約四八九二平方メートルだったが、明治四二年(一九〇九年)一月一一日の火災のため内部と屋根が焼失した。

しかし、外壁はそのまま残り、明治四四年(一九一一年)一一月一五日、元の姿に近い形で修復工事を終え、「赤れんが」の名で親しまれてきたが、昭和四三年(一九六八年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。

開拓使札幌本庁本庁舎の建物跡地と旧北海道庁本庁舎の建物のあるこの場所は、道民とともに、北海道風雪百年の歴史をになってきたところである。

われわれは、この歴史の遺産をふまえ、北海道の明るい未来を築こう。

昭和四三年九月二日 文部省 北海道」

と刻まれています。

また、向かって左側の石碑には、史跡見取図とともに

「重要文化財北海道庁旧本庁舎 昭和四四年三月一二日指定

この庁舎の建築様式は、アメリカ風ネオ・バロック様式といわれ、設計は、当時の北海道庁土木課が行ったものである。

明治一九年(一八八六年)七月一五日新築の工をおこし、同二一年(一八八八年)一二月一四日完成したが、明治四二年(一九〇九年)一月一一日の火災による大改修その他数度の修補により、原形をやや損じていた。

昭和四三年(一九六八年)北海道百年を記念して、この庁舎を保存することとなり、その復元改修工事が施された。復元に当っては、中央八角塔をはじめ、屋根窓、換気塔、煙突、およびり両側玄関などの外形を復し、かつ、正面玄関上の屋根を寄棟をマンサード屋根に、亜鉛鉄板葺をスレート葺に、屋根各棟上に金属製棟飾りを復した。また、建物の内部には、防災および構造補強のため一部の改造を施した。

この建物は、簡素ながら、その意匠にもすぐれており、明治時代における赤れんがの官庁建築として、その価値はきわめて高く、かつ、北海道開拓の歴史的意義をもあわせ伝えるものとして貴重な遺構である。

昭和四四年七月一五日 文部省 北海道」

と刻まれています。

少し長い引用でしたが、札幌の開拓のシンボルとして築かれた歴史遺産を、これからも引き続き残していくことが大切です。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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