(あしあと その25・中央区の23・護国神社の4)
彰徳苑の入り口から3つ目にあるのが「樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑」です。
大きく「鎮魂」と刻まれた御影石は、戦火に追われて亡くなられた方々の無念の魂を、文字通り鎮めているかのように堂々と置かれています。碑下の石板の碑文には、
「太平洋戦争末期の昭和20年8月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。恵須取町大平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難した。炭鉱病院看護婦二十三人も夕刻になって避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の事態を予測した高橋婦長らは、十七日未明に集団自決を図り六人が絶命した。あまりにも悲しい事件であった。
以来、四十七年。殉難者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、ゆかりに人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙神崎製紙の旧王子製紙系四社、その他関係団体の協力でこの碑を建立した。ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念する。 平成四年七月十一日 樺太大平炭鉱病院 殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会」
と刻まれており、戦争の悲惨な出来事の一幕が明らかにされています。
当時、ソ連軍の参戦によって樺太は戦火の焦土と化し、応召されて医師が不在の大平炭鉱病院は、若い看護婦だけで一線から送られてきた傷兵たちの手当てをしていました。終戦を迎えた翌日、ソ連軍の猛攻によって大方の住民は避難しましたが、けが人の看護という使命感を持つ23名の看護婦たちは、8名の重傷者とともに町に取り残されました。重傷者たちは足手まといとなる自分たちを残して、一刻も早く避難するように口々に叫び、看護婦たちは患者たちに食料を分け与えて後ろ髪をひかれる思いで病院を後にしました。
ところがすでにソ連軍は間近に迫っていて、すでに彼女たちの退路は塞がれていました。責任者である婦長の決断で全員で自決することを覚悟し、16歳から33歳の若き看護婦たち全員が大量の睡眠薬を注射したうえで手首をメスで切りました。それでも亡くなったのは婦長以下6名。17名は辛くも命は取り留めましたが、生存者たちの生き残ったことに対する悔悟はその後の人生でも決して忘れられることなく、最後まで彼女たちを苦しめました。
碑の背面には、自決した若き看護師たちの氏名が刻まれています。
「昭和二十年八月十七日 樺太恵須取町字武道沢に於自決
大平炭鉱病院看護婦殉職者
高橋 フミ 三十二才 石川 ひさ 二十四才 真田 和代 二十才 久住 キヨ 十九才 佐藤 春江 十八才 瀬川 百合子 十七才」
余りにも若すぎる死を選択せざるを得なかった戦争の狂気。それも銃後で負傷者の救護にあたる看護師たちが、敵に囲まれた中で前途に絶望して自らの命を絶つ。このような悲劇を後世に伝える碑の存在の重みを感じます。
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