(あしあと その54・中央区の45・北海道神宮の1)
今日は、朝早くから北海道神宮の境内散策。子供のころに遊びに来たくらいで、大人になってからはじっくりと歩いたことのない神宮境内。意外なところにたくさんの碑が建てられていて、北海道の歴史を改めて感じさせてくれました。一つ目の碑は、「樺太開拓記念碑」です。神宮の円山公園口鳥居をくぐってすぐ左手に建つ、高さ4メートルの白御影石でできた石碑です。
碑銘は、碑が建立された昭和48年当時の北海道知事堂垣内尚弘氏の揮毫によるものです。また台座正面の黒御影石には、
「第十二代樺太庁長官 今村武志氏遺墨 丹心貫日月 武志」
と刻まれています。
背面に回ると台座部分に碑文が刻まれており、それには
「碑文
樺太は古来わが蝦夷地の一部としてカラトの島と呼ばれ 経営の歴史は十六世紀の昔に遡る 一五九三年豊臣秀吉から松前 蝦夷地の支配を許された蛎崎氏は のちに松前藩となり 一六七九年から藩士を出し 久春古丹(太泊の楠渓)に陣屋を設けて統治の端を開いた 以来約百三十年間藩政は定着し邦人の出漁も次第に増えた ところが一八〇六・七の両年に亘りロシアのフォーストフらが久春古丹や留多加を襲うにいたって幕府は樺太を直轄して自ら守ることとなった このころから幕吏や憂国の士の樺太探検があいつぎ 一八〇八年松田伝十郎 間宮林蔵が北樺太を究めた功績は間宮海峡の名と共に不滅である その後ロシアのネヴェルスキーらが 久春古丹に進駐した(一八五三)が 翌年長崎会談の結果撤退した つづいて日露通好条約ができ(一八五五)国交は約二十年間安定した しかるにロシアは軍艦の威力を示して東進を迫るに至り 明治新政府は内外の多端に追われて 樺太を貧小十八の千島と交換せざるを得なかった(一八七五) さらにロシアの進路は満鮮に転じて国交はいよいよ緊迫し 遂に日露の開戦となった(一九〇四) 幸い戦は日本の大勝に帰し 翌年両国はポーツマスに会して和を講じ 漸く樺太の南半を回復したのである 以後四十年間われらの父祖はここを墳墓の地と定めて不毛に挑み酷寒に抗し 心血を注いで殖産を興し 制度を整え文教を進めて近代樺太を築き上げた かくて島民待望の内地編入が行なわれ 年間の総生産額は四億円に上り人口は四十万を算した この宝の島が一九四五年(昭和二十)大東亜戦争も末期となった八月九日未明からソ連軍の進撃するところとなり 翌年ソ連はその領有を宣言したが 米英等四十八ヶ国は対日平和条約(一九五二)においてそれを認めず 日本に放棄された樺太と千島十八島の帰属を定めなかった われらこの史実を辿り北辺の開拓と守りに挺身した幾多先人の功績と犠牲を思えば 痛恨愛惜切々としてつきない ここに樺太四十万引き揚者の赤誠を結集して不朽の碑を建て 先覚の偉大な功績を顕彰すると共に 開拓の途上に散華した幾万諸霊の冥福を祈る標となし もって民族の行路に一灯を掲げるものである
昭和四十八年八月二十三日 社団法人全国樺太連盟会長 梅内正雄 元樺太庁長官 小河正儀 共撰」
と、樺太の歴史が克明に記されています。
ポーツマス条約によって日本に編入された、樺太島の北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を管轄した樺太庁。'45年8月の時点で、樺太には42市町村(1市12町29村)と10郡4支庁がありました。長官は民政長官から引き継いだ初代から数えて15代まであり、台座の正面に刻まれた第12代長官の今村武志氏は、'32年7月から'38年5月まで務め、碑文の共撰者の一人である小河正儀氏は第14代('40年4月-'43年7月)を務めました。
0コメント