「郷栄乃碑」。

(あしあと その696・手稲の22・前田の4)

手稲区前田の手稲稲積公園の北東方向に稲積記念会館がありますが、その敷地の一角に巨大な「郷栄乃碑」が建てられています。

碑は、中央部に白御影石が積まれた石柱がそびえたち、その左右に黒御影石でできた副碑が置かれています。石柱の頂上には「稲積」と刻まれた六角形の碑石が置かれ、正面には「郷栄乃碑」と大きく刻まれた碑銘の脇に「札幌市長板垣武四」と添えられています。

碑に向かって右側の副碑には、

「昭和四九年八月設立認可時役員総代氏名

昭和五二年十一月相談役委嘱

昭和五四年九月任期満了に伴う新任役員総代氏名

昭和五八年三月早大定数変更に伴う新任総代氏名」

として、それぞれに多数の氏名が刻まれています。

碑に向かって左側の副碑には、長文で沿革史が刻まれており、そこには

「事業の沿革

この地域は、酪農及び水稲を主体とした専業農家十数戸と明治乳業株式会社の経営する牧場等からなる都市近郊型農業地域として、多大なる農業成果を背景に順調な発展を続けていた。

しかしながら、この地域の付近に工場が相次いで建設され、地下水の汲み上げが多くなったことから、地下水位が極端に下るところとなった。このため多量の水を必要とする酪農経営が困難となり、農地を手放す農家が増えていった。その結果、図上分筆による分譲転売が行われことから、この地域の将来の発展に大きな支障をきたすおそれが生じ、一部有志の心痛とする処であった。

そのような折りの昭和四十七年十一月、札幌市から組合施行による土地区画整理事業によりこの地域の一層の発展を図ってはどうかとの勧めを受け、札幌市と地元関係者との協議が開始された。その後、昭和四十八年一月二十日に稲積開発期成会の発足を見、数次にわたる関係機関及び権利者の意志確認を行ない、昭和四十九年六月に至り大方の同意が得られたので、札幌市長に対し札幌市ていね稲積土地区画整理組合としての設立認可申請を行ない、同年八月二十日付けを以ってその認可を得た。

この事業の工事実施に当たっては、予想外の軟弱地盤に遭遇し、下水道工事は途中で工法の変更を余儀なくされる等最悪の極限迄に至り、これらの克服のために幾多の努力が重ねられた。加えて日本経済が低成長期に入り、金融引き締め等の影響もあって、組合財政運営も非常に困惑した。この困難な時に当たり、札幌市の適切な指導と組合役員及び各権利者が一致協力して幾多の難局を乗り越え、ここに事業の完成に当たり、この事業を末永く後世に伝え、この地域、この郷の限りない発展を祈念し、ここに碑を建立す。

昭和五十九年五月吉日 組合設立年月日 昭和四十九年八月二十日 組合員数 三八〇名 総面積 一〇四、九ヘクタール 総事業費 六拾九億六千九拾八万五千円 札幌市ていね稲積土地区画整理組合」

と刻まれています。

石柱の背面には、「稲積土地區画整理事業完成記念碑 昭和五十九年五月 建立」と刻まれています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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