「相沢良顕彰碑」。

(あしあと その587・西区の31・平和の7)

西区にある平和の滝の駐車場入り口にある「相沢良顕彰碑」です。

説明板に向かって右側に、相沢良の胸像のレリーフのついた説明板が立てられています。

木製の説明板には、

「相沢良と「平和の滝」

相沢良は二十五歳ハヵ月の短い生涯を、戦争に反対し、働くものの解放のために不屈にたたかいぬいた人間愛と勇気に満ちた女性活動家でした。

この「平和の滝」は、相沢良が戦時下の一九三二年夏から秋にかけて、治安維持法による不当な弾圧のもと、札幌市内で働く女性労働者とともにハイキングを行い、平和や働くものの幸福について語り、学習し、労働歌をうたって勇気づけていたゆかりの所です。

圧政と勇敢にたたかった相沢良は、激しい拷問にさらされ、獄死寸前の重篤のなか仮釈放その一週間後の一九三六年一月二十八日、青森の生家で亡くなりました。」

と記されています。

また、その木枠の右脚には、「故相沢良を偲ぶ 日登寺六世住職 佐藤光春」と、左脚には「一九九四年十月十六日 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部 之を建つ」と記されています。

相沢良の胸像のレリーフには、「相沢良 1910-1936 '85鮎」と刻まれています。

レリーフの下部にあるブロンズ製の説明板には、

「相沢良の青春

1910年5月15日、青森県野沢村吉野田(浅岡町)で石の父武良、母秀の次女に生れる。17歳でエスペラント語と社会主義をまなび、戦争と搾取のない人間平等の社会をめざして生きる決意をする。

28年10月、帝国女子医専に在学中、共産青年同盟に加盟、29年後半は共産党の再建に協力する。30年夏に医専を中退、横浜で紡績労働者になって金属繊維労組で活動中の31年1月、戸部署に検挙される。

31年5月、弾圧で火の消えた青森で共青の地下活動に入る。五号村青年訓練所の反戦ストライキで指導者と見られ、6月に検挙され浪岡署に送られる。中国侵略戦争が起きた9月、姿を消して青森市に入る。謄写刷りの「赤旗」を回読して若い同志たちを励まし、刻々と検挙の危険が迫る中で約3ヵ月、反戦活動をつづける。12月下旬、日本髪と赤い手甲の嫁入り娘の変装で特高の追及をのがれ、雪景色の津軽海峡を脱出する。

32年2月、札幌で学習会を組織。5月、全協札幌準備会を結成、女性の多い各工場に組合員を拡大する。実名も経歴も秘めて指導力を発揮、化粧せずに日焼けして、「クロさん」と敬愛されていた。7月、札幌郵便局の同志と連絡がついて全協札幌地区を再建、共産党の「32年テーゼ」なども増刷りして配布する。33年1月東京の全協中央と連絡がついて労組の闘争や反戦活動が高揚する。2月20日、小樽出身の小林多喜二が東京で虐殺され、札幌でも弾圧の中で追悼集会が開かれる。

33年4月、札幌を中心に230名が検挙される。北海道で3・15弾圧に次ぐ検挙者数。指導者の相沢良は美唄署で連日の拷問に屈しなかった。裁判でも侵略戦争と弾圧を糾弾して闘い、一審、二審とも関係者で最高の懲役四年の刑で札幌の刑務所に投獄される。重病の獄中から父への手紙で「真理は主観でゆがねる事はできない」と転向を拒否する。

36年1月、肺エソの重篤状態で出獄、父母と共に大雪の津軽野に馬ソリで帰る。7日後の1月28日、板柳町五林平の家で死去する。反戦平和と人民解放に捧げられた25歳8カ月の障害で、その最後まで生きて、闘い抜くことを考えていた。拷問の傷跡が残る遺体は、雪原の夜空に赤あかと燃え上がる浄火で火葬された。人間愛と知性にみちた約20週の獄中書簡が残された。津軽が生んだ最良の娘であった。(山岸一章・記)」

と記されています。

レリーフの裏側には、一部文字が欠けている部分がありますが、「(一)九九六年九月二二日 治安維持法犠牲者国家補償(要)求(同盟)北海道本部(建)立」と記されています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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