(あしあと その413・西区の7・発寒の2)
春日公園に「永田休蔵之碑」と並んで立つ石碑が「發寒開邨紀念碑」です(「邨」は別字。)。縦長の自然石の碑面に、おおきく「發寒開邨紀念碑」と刻まれています。
石碑はいびつな三角柱の形状をしており、その背面の一面には細かい文字が刻まれていますが、背景色と同化していて読み取りにくくなっています。資料によると、碑の背面に細かく刻まれた文字は、おおむね次のような内容によるそうです。
「北海之地茫乎榛莽耳萑葦耳欲開之興國利者非有不屈之勇而出於至誠不能也安政三年幕府士山岡主計頭以属吏來此地募聚農十七八戸創墾拓稱曰發寒邨發寒夷語所謂婆遅屋牟即小椋鳥義也盖此鳥以多在也主計頭奬勵夷與募民欲達其志塞其責事竟不成歸時慶應三年也而其存者僅三四戸至明治九年始移屯田兵三十二戸今也闔邨至四十戸之多墾拓進歩洵著矣前後所墾之地大凡百町餘乃茫乎榛莽萑葦之地忽焉變爲百穀幪穟之田可謂勉矣其所産以麻苧爲最繭絲亞之擧邨奮然相競尚進欲擴張墾地之區域嗟可謂熾矣近者同邨人來請辭於予乃依其言屬文茲邨人醵金建碑以爲記念
札幌農學校助教授 山崎 益 撰」
別の一面には、「明治二十有六年八月十五日建設」と刻まれています。
碑の脇に立てられた新しい説明板には、
「開村記念之碑
安政4年に、山岡主計頭さんが永田休蔵さんらと農家、17〜18戸をさそいこの土地に住み荒れた土地をきり開いた。その時、この土地を発寒部落とよぶようになり、その後多くの人たちがこの土地に住みつくようになった。そこで安政4年を発寒の始まりと決め永く伝えるためにみんながお金を出し合ってこの記念碑をたてた。」
と記されています。
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