「石川啄木歌碑」。

(あしあと その295・中央区の116・大通公園の15)

大通公園の3丁目北側の一角にある青年のブロンズ座像。これは石川啄木の像であり、その左側に「石川啄木歌碑」と記された石碑が置かれています。

碑は黒御影石でできており、そこには「石川啄木歌碑 札幌市長 板垣武四」の下に「しんとして 幅廣き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ」の歌が刻まれています。

石碑の側面にはブロンズ版が上下に2枚はめ込まれており、上の板には

「秋風記より

札幌は寔に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。

明治四十年作」

と記されています。

また、下の板には、

「国民的歌人として知られる石川啄木が函館札幌・小樽・釧路と本道漂泊の旅をつづけたのは、二十一歳の折の明治四十年春から翌年の春にかけてであった。

札幌には秋九月の二週間滞在し、北門新報社に勤めた。啄木の代表歌集「一握の砂」は近代詩歌史上もっとも愛唱されているが、ここに刻んだ歌には明治の札幌の心情が鮮やかに詠まれている。

啄木は札幌を「美しき北の都」とも「住心地最もよき所」ともいったが、そのゆかりを想い、ことし七十回忌にちなんでこの記念碑を建立するものである。

昭和五十六年九月十四日 石川啄木記念像建立期成会」

碑の背面にもブロンズ板がはめ込まれ、そこには「石川啄木像建立協賛者御芳名」として、10の法人と4名の個人名が記されています。

この石川啄木像の手前右側には、「さっぽろ・ふるさと文化百選」の説明版があまり人目につかず建てられており、そこには、

「大通公園

大通公園は、明治4年(1871年)開拓使により官地と民地を分け、防火のための「火防線」として設けられたのが始まりである。明治11年(1878年)に開催された農業仮博覧会はじめ各種行事の会場としても使われた。大正時代には花壇が設けられるなど、公園として形づくられていった。戦争中は野菜畑になったこともある。戦後は雪まつりや夏まつりの会場になるなど、歴史とともに移り変わってきており、札幌の顔とも言える公園である。」

と記されています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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