「手稲山口バッタ塚」。

(あしあと その294・手稲の4・山口の4)

国道337号から山口墓地に向かう道に入って北進し、墓地を過ぎてさらに奥に向かうと、右手に山口緑地方向を示す看板が建っています。ここから右折して突き当りまで行くと小さな駐車場があり、その北側に小さな四阿(あずまや)のある敷地が広がっています。その奥に柵で囲まれた草地が見えますが、そこが「手稲山口バッタ塚」の跡地になります。

うねうねと小さな起伏が続く草地を囲んだ柵の内側には石碑と説明板が建てられています。

石碑の碑面には「手稲町山口 バッタ塚」と刻まれ、「ほぼ実物大」と記された雌雄のトノサマバッタのイラストが添えられています。

碑の背面には、

「元手稲村山口のバッタ塚(づか)

ここは明治13年から同18年にわたる北海道蝗(こう)害の記録や古老の言い伝えから考えて恐らく明治16年に、人手と器具で付近10km以内の土中から堀り集められたトノサマバッタの卵数億を、うね状に集積し、くわでその上に20cmほど砂をかけて翌春孵化するのを防ぐという、当時世界でも最新の方法が行われた、日本の虫害対策史上きわめて貴重な遺跡の一角である。」

と刻まれています。

石碑の右側に建てられた説明板には、次のように記されています。

「札幌市指定史跡 手稲山口バッタ塚

飛蝗(ひこう)

バッタ科の昆虫が郡(群の誤記と思われる)飛して移動するもの。広大な草原地帯で発生し、通過地域の農林作物は惨害を受ける。

生息密度が低い時は郡(同前記)飛しないが、高密度になった世代では形態上・生理上に著しい変化が起こって飛蝗化する。

ー広辞苑よりー

農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に残っている限りでは、明治13年に十勝に発生して、日高、胆振、後志、渡島、などへ広がり、同18年まで農作物などに被害を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。

明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、当時のお金で年約5万円を支出して、飛蝗の駆除に努めました。

当初はアメリカ、ヨーロッパ、中近東で行われた防除方法を参考にし、捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。

ここに見られる幅広い畝(うね)状の塚は、効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8km内外の地域で堀り集めた大量の卵のうを、不毛に近い砂状に列状に並べ、各列の上にその両側の砂を厚さ25cmほどかけて、造られたものと推定されます。当初この様な畝は100条ほどありましたが、昭和42年にそれらの一部が東京拓地㈱から札幌市へ寄贈され、昭和53年8月21日に札幌市指定史跡となり、ここに保存されています。」

山口県からの入植者たちによってこの地の開拓が始まったのが明治15年ころ。明治13年に始まった飛蝗は、ちょうどこの年に札幌を襲い、農作物に甚大な被害をもたらしました。入植してすぐに飛蝗の直撃を受けた山口地区の開拓者たちの絶望は想像に難くありませんが、そのすぐ近くに広がる大浜の砂地がバッタの産卵地となることが判明したことから、新しい方法によって大規模な駆除が行われました。

駆除の効果が見え始めた明治17年には大雨が続き、雨に弱いバッタの発生は終息を迎えましたが、雨の影響で冷夏となり、バッタに続いて農作物の生育に影響を与えたそうです。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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