「薄野娼妓並水子哀悼碑」。

(あしあと その126・中央区の71・すすきのの2)

すすきのの繁華街の南のはずれにある豊川稲荷札幌別院の正面入口から境内に入って左手に、屋根に覆われた石碑があります。それが「薄野娼妓並水子哀悼碑」です。

碑のすぐそばに建立の謂れが掲げられていて、そこには次のように記されています。

「「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」建立のいわれ

薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の“足止め策”として薄野遊郭を置いたのが起源であります。

その開拓を支えた遊郭の娼妓たちを供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事、堂垣内尚弘氏から碑文を頂き建立したのが、この哀悼碑であります。

昭和五十一年五月二十五日記 薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌」

豊川稲荷札幌別院の境内を囲む札幌軟石で造られた門柱や支柱は歴史のあるもので、そこに刻まれた名前のほとんどが風化して読みにくくなっていますが、かろうじて遊郭や遊女たちの名前ではないかと思われる文字が読み取れます。また、正面の鳥居の左脇に建てられた古い門柱には、「新見番」と大きく刻まれていますが「見番」とは、「遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎょくだい)の精算などをした所」を指します。

すすきのは、明治4年という北海道の開拓期に発祥した歴史のある繁華街です。最盛期の明治40年ころには、遊郭が32軒、遊女が372人いたという記録があるそうですが、はっきりとした記録はほとんど残されていません。その後、大正7年にすすきの地区の南側に隣接する中島公園で開道五十年記念北海道博覧会が開催されることが決まったのを期にすすきのの遊郭を移転することが決定し、2年後の大正9年に豊平川を挟んで北東に位置する菊水地区に遊郭が移転されました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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