「本願寺街道跡」碑。

(あしあと その84・南区の19・簾舞の1)

札幌市内から定山渓を抜け、中山峠を越えて太平洋側に至る国道230号。この前身は、北海道開拓に間もない明治4年に完成した「本願寺街道」です。

この街道は、現在の国道230号とは重ならない部分もありますが、現在の伊達市から札幌市豊平区平岸までの約100kmの道のりを、工事のほとんどを人力や馬力によって、たったの1年3か月で完成させた難工事でした。当時の街道の一部は、現在の簾舞で見られることができます。その場所は、国道230号を定山渓方向に向かって簾舞に入って左手に見える簾舞中学校の敷地になります。

簾舞中学校の校舎入口の手前に案内板が建っていて、それには

「簾舞二星岱麓の南側および旧「山の上」(現・簾舞団地)と称したところに、札幌の黎明期僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の大原始林に挑んで、一条の道筋を開削した「本願寺道路」(別名・有珠新道)の跡がある。

安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家、松浦武四郎だった。

明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、東本願寺は「新道切開」「移民奨励」「教化普及」の目的により、政府に北海道開拓の官許を得て、翌3年若干19歳の法嗣現如(げんにょ)上人が中心となり新道の開削を始めた。特に札幌と函館を結ぶ重要道路として、工事に最も力を入れたのは、尾去別(おさるべつ)(伊達市)から札幌平岸まで道幅約3m全長26里(約104km)の事業で山間渓谷難所続きも1年3ヶ月の突貫工事により4年10月に完成させた。それは、現在の国道230号線の原形となったもので当時の姿の一部を簾舞でしのぶことができる。

また、明治5年1月開拓使は、この道を利用する旅人へ宿泊休憩などの便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩清五郎一家が、この地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。

この街道が後世、地域発展に大きく貢献した事は言うまでもない。往時を知る貴重な「史跡」である。

平成8年10月10日・簾舞通行屋保存会」

と記されていて、簾舞地域に残されている街道跡の地図が併記されています。

この案内板の脇には、「本願寺街道跡」のモニュメントがあり、その一面に

「ここは、札幌(平岸)と伊達紋別(尾去別)を結ぶ(有珠新道本願寺街道)の一部である。東本願寺は、新政府に北海道開拓の許可を受け、明治3年(1870年)当時19歳の現如上人が中心となり、新道を開鑿した。1年数ヵ月という短い期間で26里(約104㎞)が完成した。現在の国道230号線の原形となったものである。」

と記されており、別の一面には案内板に掲げられた街道跡の図面が刻まれています。

本願寺街道跡図に記された赤色の実線は、現在でも街道跡としてたどることができます。簾舞中学校の裏手に回ってみると、裏山のふもとに「本願寺街道」の標識板が見えてきます。

両側に石が積まれた平坦な山道が山際に沿って伸びており、40mほど進んだところに小さな「本願寺街道跡」碑があり、碑面には「明治四年開削 本願寺街道跡」と刻まれています。

そもそも東本願寺が北海道開拓の新道開削に尽力した理由というのは、幕末の戦乱期に幕府側と見られていた東本願寺が、維新後に宗派の存続を賭けて西軍に取り入り、その命によって僧侶をを送り込んだというのが事実のようです。その難工事も僧侶だけで乗り切れるはずもなく、多くのアイヌの人たちがその犠牲になりました。そして、この街道開削のわずか2年後の明治6年に開通した札幌本道に流通の主役を奪われ、この本願寺街道は荒廃していきました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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