「藻岩犠牲者の碑」。

(あしあと その48・南区の7・藻岩下の6)

前回の記事で紹介した、ほくでんの「殉難者之碑」。この近くにもう一つ、ほくでんの発電所建設工事で殉難者を慰霊した石碑があります。それは「藻岩犠牲者の碑」です。

その場所は、藻岩発電所から流れる山鼻川の暗渠を越える手前で、斜め方向に右折してミュンヘン大橋方向に向かった、ちょうど山鼻川の暗渠の出口にあたる送電線の鉄塔のふもとになります。そばに近づいてみると、うつむき加減で両掌を水をすくうように広げたヒト型のブロンズ像があり、その足元は4本のツルハシを模った台座になっているのがわかります。

台座に下の部分には石版がはめ込まれており、そこには

「札幌市民に文化生活の源である水と電気をもたらしている北電藻岩発電所と札幌市藻岩浄水場の建設工事は、一九三四年に着工し、発電所は一九三六年、浄水場はその翌年に完成しました。

この二つの施設に注がれる豊平川の水は、簾舞のダムから地下を走り、導水路を通って藻岩山山腹の発電所に運ばれ、さらにそこから伏見にある藻岩浄水場に送られ、全長十三キロ余に及んでいます。

浄水場は札幌市直営工事で行われました。発電所は、北海水力電気株式会社(現北海道電力の前身の一つ)が発注元となり、鹿島組(現鹿島建設)と伊藤組が元請、およそ四十の組が下請となって建設されました。

発電所では、タコ部屋、信用部屋、「通い」の労働者等およそ四千名が従事し、犠牲者は現在までに少なくとも八十名を超え、その内死亡者は朝鮮人五名を含め三十四名を数えています。(推定を含みます。)

これら労働者の多くは、全国各地で生活に窮していた日本人であり、日本の植民地支配によって遙か異郷の地に渡って来ざるを得なかった朝鮮人でした。その中には、周旋屋に騙されてタコ部屋に売られ、過酷な労働を強いられた人々が数多くいました。下請の約半数がタコ部屋で、朝鮮人のタコ部屋は三棟、朝鮮人の信用部屋が五棟ありました。

タコ部屋労働者は、監禁されたうえ酷使され、衰弱しても医薬を与えられることはまれで、時には体罰が加えられ、ある者は生き埋めにされ、ある者は虐殺されるなど、残虐非道な目にあいました。また、信用部屋の労働者も不十分な安全対策のため落盤事故等にあい、命を落としました。

遙か故郷を思い、疲れ果てた末に今もって誰にも知られず闇に葬られている犠牲者の無念を思う時、その原因と責任の所在の解明をさらにすすめる必要があります。

ここに私達は、この工事に携わった労働者の労苦を偲び、多くの市民の賛同と浄財によりこの碑を建立し、犠牲者の追悼をすると共に、再びこのような人権無視が行われることのないようにその事実を後世に伝え、この歴史を心に刻み責任を果たしたいと思います。

一九九四年六月十一日

北電藻岩発電所建設工事犠牲者の碑を建てる会」

と刻まれていますが、読めば読むほど歯切れが悪い文章に、真実と責任の所在がぼかされているような印象が残ります。実際にはこの文章で語られているよりも、もっともっと想像を絶する過酷な状況の下で労働が強いられたことと思います。

遠く故郷を離れて、人を人と思わない扱いて受けて命を落としていった朝鮮人たち。甘言に誘われて連れてこられ、そのまま監禁状態に置かれて労働を強制された若者たち。彼らの犠牲のもとに、今の私たちの平和な生活が営まれている。何か釈然としないものが心に残ります。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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