(あしあと その39・中央区の37・護国神社の18)
彰徳苑の14基目の碑は、「北千島慰霊」碑です。5トンの原石を用いた碑銘の揮毫は、当時の北海道知事堂垣内尚弘の筆によるものです。
台座にはめ込まれた石板には、
「千島列島ノ最北端ニ位置スル占守 幌筵ナド北千島ノ諸島ハ、大東亜戦争ニオケル本土防衛ノ北東方面第一線ニシテコレヲ守ル第五方面軍第九一師団ヲ基幹トスル陸海軍将兵及ビ民間産業戦士等ハ,北洋の孤島特有ノ酷烈ナル自然ノ重圧ト、戦況ノ悪化ニ伴ウ補給途絶ノ艱苦ニ耐エツツ、長期ニ亘リテ志気些カモ衰エルコトナク、迎撃ノ闘魂ニ燃エテ防衛任務ヲ遂行セリ。然乍ラコノ間ニオイテ、或イハ空中戦ニ 或イハ米軍ノ艦砲射撃ヤ空爆、輸送中ノ雷撃ヤ疾病等ニヨリ 任務ニ殉ゼル者モ、ソノ数少ナカラズ。
昭和二十年八月十八日未明 時既ニ終戦ノ大詔ハ渙発サレ全軍矛ヲ収メタル後ナルニ 突如、ソ連軍ハ猛烈ナル砲爆撃ノ支援ノモト、全北千島占領ノ企図ヲモッテ、占守島国端ノ竹田浜ニ攻撃シ来タレリ。予期セザル奇襲ニ対シ自衛ノタメ直チニ反撃ニ立テル我ガ軍ハ、激闘数時間ニシテ敵ニ壊滅的打撃ヲ与エテソノ行動ヲ頓挫セシメ、更ニ敵ヲ一挙ニ水際ニ殲滅スルノ態勢ニ至レルモ、軍命令ニヨリ、同日一六時攻撃ヲ停止、停戦協定ヲ締結シ、ニ三日武装ヲ解クコノ戦闘ニオケル我ガ軍ノ戦死約七百名ナリ。
コノ後 全将兵ハソ連領内ニ抑留サレ、極寒ト飢餓ト恥辱ノ境ニ彷徨シツツ強制労働ニ服スルコト数歳、遙カニ故国ヲ望ナガラ非命ニ倒ルルモノ多キハ、痛恨ノ極ミナリ。戦後時移リテ三十星霜 未ダ戦跡ヲ訪ネテ弔ウヲ得ズ、シカモ北千島戦史ノ世ニ埋没シユクヲ悲シム。
茲ニ戦友遺族相侍リ、殉国ノ英霊神鎮マリマス札幌護国神社ノ境内ニ碑ヲ建テ、ソノ武勲ヲ讃エテ、英魂ノ永遠ニ安ケキヲ祈念スルモノナリ。
昭和五十年八月二十三日 北千島関係戦歿者慰霊碑建立者 識」
と刻まれています。その内容は、終戦後も北千島に残留することとなった日本軍は、北千島の占領を目的としたソ連軍の奇襲攻撃を受け、熾烈な戦闘の結果圧倒的有利に立った日本軍がソ連軍に壊滅的打撃を与えるも、停戦協定が結ばれて武装解除を余儀なくされ、戦闘とともに極寒のシベリアに抑留されて強制労働の末多くの兵士が命を落としたことが書かれています。
碑に向かって右側の袂に台座があり、その上に子どもの頭大の石が置かれています。その台座の石板には「碧血留魂 北千島占守島四嶺山の石」と刻まれています。占守島の四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていました。
この石が置かれた台座の右側面には、
「献納 平成十一年八月二十日 釧路カムチャッカ研究会 藤田卓也 建立 平成十一年十一月三日 北千島慰霊の会」
と刻まれた石板がはめ込まれています。
石碑の台座の側面には、「碑石 北海道日高町川渕銘石店 設計 北千島慰霊の会世話人 施工 小野石材工業株式会社」と刻まれた石板がはめ込まれています。
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