「東宮駐蹕記」碑。

(あしあと その694・手稲の20・前田の2)

手稲区の前田公園内にある巨石の碑が「東宮駐蹕(ひつ)記」碑です。園内の通路に面して建てられたこの碑は、公園のちょうど中央部に位置しています。

碑は上部三分の一の部分がひび割れており、セメントでつなぎ留められています。そのひび割れた上部の碑面には、「東宮駐蹕(ひつ)記」と読める篆額(てんがく)が浮き彫りにされています。この碑は「東宮駐輦(れん)記」碑と広く呼称されていますが、「東宮駐蹕(ひつ)記」碑が正ししい名称なのではないかと思われます。「駐蹕」も「駐輦」も同じ意味で、天子が行幸の途中で車を止めることをいいます。篆額の下には石碑の謂われが座まれていますが、一部は風化して解読が難しくなっています。

台座の正面には、「この石碑に記されている内容」として、次のような読み下しが記された金属板がはめ込まれています。

「東宮駐輦記碑

〔この石碑に記されている内容〕

皇太子殿下ご滞在の記

明治44年秋8月、皇太子殿下は北海道に行幸されました。その折、25日石狩国軽川に来られ、前田家の農場をご視察されました。

これより先にも、皇太子殿下には前田家本郷の邸宅にも、しばしば臨幸されました。そして、今またこうしてこの地にもおいでいただきましたこと、まことにありがたく幸せなことです。

農場の諸君も、感激して恩に報いようと、仕事に打ち込み労働に服して、世の模範になろうとしています。やがて、農場も良い土地となり、収穫も多くなることでしょう。牧草が豊かになり家畜が繁殖すれば、酪農も盛んになります。

すなわちこれが国家にとって、根本を治め、物産を豊かにする行為です。諸君もまた、大いに力を尽くしたということができます。ですから、殿下のご意思と公のこれにお応えしようという誠意も大いに賛同を得たと言えるのではないでしょうか。

公は、近彰に文章を作成し、石碑に刻んで後世に伝えるように命じました。

そこで、謹んで歳月を誌し、あわせて一言を添えておきました。

侯爵前田利為が篆額を書き、永山近彰が敬って文章を作り、石川龍三が謹んで書きました。」

碑の脇には説明板が立てられていて、そこには

「前田農場「東宮駐れん記」碑

〈建立年 明治44年(1911年)8月、行啓後に建立 年月日不明〉

明治28年(1895年)に前田家15代当主利嗣(としつぐ)が軽川に大規模な農場を開きました。これを前田農場といいます。

明治44年(1911年)8月、前田農場を当時の東宮(後の大正天皇)が視察しました。この時、農場の庭園内に御便殿(ごべんでん)という休憩所が建てられました。その後、御便殿のとなりに、東宮が行啓(ぎょうけい)したことを記念した「東宮駐れん記」が建てられました。

その後、個人宅内で管理されていましたが、平成25年(2013年)にその敷地が売却されてしまったことから、手稲区郷土史研究会をはじめ、地域の方々の協力のもと、旧前田農場地内に当たる前田公園内に、この年10月復元移設されました。

昭和17年(1942年)字名設置により、この地域が前田と呼称される記念すべき石碑です。」

と記されています。

平成25年10月5日、碑の移設完了を記念し、関係者が参加して除幕式が執り行われました。この碑は、それまで管理されていた個人宅の敷地が売却されることにより、取り壊される予定だったそうですが、有志の働きかけによって場所を移し、後世に伝えられることになりました。

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