「永田休蔵之碑」。

(あしあと その412・西区の6・発寒の1)

JR函館本線の発寒中央駅から150メートルほど西側に、発寒小学校と西消防署の敷地に囲まれた春日緑地があります。この緑地には、JRの線路に向かって建てられた2つの石碑があり、向かって左側に建てられた碑が「永田休蔵之碑」です。

札幌軟石で造られた台座の上に、自然石でできた碑が載せられており、碑面には大きく「開村功勞者 永田休蔵之碑」と刻まれ、その左に小さく「北海道帝國大學總長佐藤昌介書」と添えられています。

台座の正面には、35人の「屯田兵氏名」が「家屋順」に刻まれています。

また、台座の左右の両側面には、「寄附人名」の一覧がそれぞれ刻まれています。

台座の背面には漢文が刻まれ、それには次のように記されています。

「永田君休蔵江戸幕府之士也安政四年與同志山岡精次郎大竹愼十郎弓氣多源之丞秋場熊藏鈴木顯助輕部傳一郎等渡道直從事當地方之開拓焉當是時此地方也人跡未到老樹蓊鬱晝尚暗〇委羆熊豺狼之蹂躙耳事業之困難可推知也然君毫無屈撓色犯危險觸風雨一意期初志之貫徹矣冬日偶々至石狩歸途遇大風雪遂卒享年四十五矣嗚呼君爲當村開發〇一命也然君靈必言我豈惜一命哉獨憂事之不成而己明治九年五月二十一日有屯田兵三十二戸移住後更加ニ戸皆克継前者之遺業拮据經營以至見大正今日本村開拓之進展今也如此君可以瞑也今茲屯田兵移住五十年同志相會深追想其功績而爲慰其靈建碑以傳不朽云

大正十四年九月十五日 發起人 (六人氏名)」

碑の脇には、小学生に向けたものと思われる説明板が立てられており、それには

「永田休蔵之碑

1857年4月に同志山岡精次郎さんらと共に、在住の中心として入地した永田休蔵さんは開拓のため、熱心に尽力された。

その年の11月に大竹慎十郎さんと二人で石狩からの帰り道冬の海岸で強い風雪にあいなくなられた大正14年発寒屯田移住50年にその功績を追想してたてられる。」

と記されています。

永田休蔵は、安政4年当時の蝦夷地政策として、八丁堀同心や八王子同心など旗本の次男、三男などが対象となった集団移住者の一人です。長期に渡って蝦夷地の警備を担った彼らの生活は、すべて自分持ちという厳しいものでした。そんな移住者の中心人物のひとりであった永田は、石狩にあった役所から発寒の部落への帰途、石狩の浜で大しけに遭い遭難しました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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