(あしあと その747・南区の157・定山渓の14)
定山渓から道道京極定山渓線に入って進んでいくと、一番突き当りに位置する旧豊羽鉱山から手前に約1キロメートルの山肌側に、四角い白御影石の石碑が建てられています。登り方向だと石壁の陰になるので、旧豊羽鉱山から下った方が見つけやすいです。
碑面には大きく「通洞跡」と刻まれており、その下に「豊羽鑛山線改良工事竣工紀念 昭和三十三年十一月 三毛菊次郎」と添えられています。三毛氏は、日本鉱業株式会社の社長を務めた人物で、同社は豊羽鉱山の経営母体でもありました。
碑の背面には、
「豊羽鉱山は大正三年 久原鉱業によって銀の生産を目的に創業され その名は豊平町の「豊」 鉱山の発見者丹羽定吉氏の「羽」を組み合わせて久原房之助翁が命名したものである 当時は大木亭々としてそびえ熊笹鬱蒼と繁った原始の深谷でこの地の道路開鑿には数千人の労力を要したと伝えられる 久原鉱業の豊羽は大正七年まで隆盛をきわめたが第一次大戦後の不況のため一時休山した 昭和十二年日本鉱業の手によって再開され大いに生産の実をあげたが 昭和十九年九月白井川川床陥没によって休山のやむなきに至った 昭和二十三年再び豊羽鉱山株式会社として発足し 日を経て隆盛の一途をたどり本道路の重要性もまた増大していたので、輸送の合理化を併せて冬期間における本山居住環境の陸の孤島化を解消するという一石二鳥の効果を期待して本道路の改良工事を関係方面に要請した 幸いにして公共事業費による補助工事の指定をうけ昭和三十一年七月着工 総工費約八千万円を費して昭和三十三年十月完成したものである 本碑は豊羽鉱山当初の担当責任者であり後年日本鉱業株式会社社長 豊羽鉱山株式会社の生みの親であり会長であった三毛菊次郎氏の書によって町道豊羽鉱山線改良工事の竣工を記念して開坑最初の鍬をいれた通洞跡にこれを建立するものである
昭和三十四年十月 豊羽鉱山株式会社 社長 建部 敏雄」
と刻まれています(一部未解読)。
台座の背面には、「設計 本田明ニ 製作 山本石材」と刻まれています。
旧豊羽鉱山は、銀、銅、亜鉛のほか、希少金属のインジウムを産出していましたが、高温の地熱で採掘が不可能となり、'06年をもって閉山しました。敷地内には山神社という名の石碑が祀られていましたが、御神体は事務所内に移設されていると聞いています。
0コメント