(あしあと その591・西区の35・西野の1)
札幌市立西野中学校の西隣に、西野第二公園という児童公園があり、その敷地に自然石でできた石碑が建てられています。
丸い形の台石の上に、セメントで固定された丸みを帯びた自然石の碑面には、大きく「用水開鑿紀念碑」と刻まれています。その右側面には、「明治三十一年五月落成 仝三十四年六月建立」と刻まれています。
碑の背面には、「発起者」として16人の氏名と、「石工 大滝當治」、そして「円山学校資産取扱人 上田善七」の氏名がそれぞれ刻まれています。また、右側面には、「許可 明治三十年十一月六日」と刻まれています。
石碑の脇に建てられた説明板には、次のように記されています。
「用水開鑿記念碑
西野第二地区開拓は、明治18(1885)年の広島県の人びとの入植により始まりました。
早くから畑を開き、水田の開発も進められましたが、水利の便が悪いため、開拓は困難を極めました。水不足を解消するため、何とかして琴似発寒川や中の川から水を引こうと努力し、苦心の末にできあがったのが広島開墾用水と呼ばれた用水路でした。この碑は、明治34(1901)年6月に、用水路の完成を記念して、入植者有志が建立したものです。
入植者の不屈の努力が実を結び、この地は明治の終わり頃には「西野米」の名で通る優れた米どころとなりました。
平成10(1998)年10月 西区役所」
元々この地には、明治4年に越後からの入植者の手により開拓が始りましたが、明治18年に広島県からの入植者が入ったことから、「広島開墾」と呼ばれたそうです。石碑の背面に刻まれた一人である前鼻村七は、広島村(現在の北広島市)で成功した米作の種籾を譲り受けて、この地で初めて水田を開きましたが、水不足が深刻化して明治27年に用水路の建設が計画されました。この碑は、用水路の完成を記念して建てられましたが、用水路は約4キロメートルにも及び、「広島開墾用水」と呼ばれました。
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