(あしあと その269・南区の86・白川の1)
藤野から豊平川の対岸にあたる白川地区。緩やかな勾配に果樹園が広がる自然豊かな地域です。この白川地区を走る市道沿いに北方自然教育園学習館の施設がありますが、その横の狭い道を通って奥まで進むと、突き当りに白川神社の社殿が見えてきます。
小高い丘の上に立つ社殿まで行くには、真新しい木製の鳥居が建てられた石段を登って行かなければなりませんが、その鳥居の手前から左手に進むと、大きな石碑が2基並んで建っているのが分かります。向かって右側の手前にある碑が、「紀念碑」です。南区のHPでは、「白川開拓記念碑」とも呼ばれています。自然石でできた碑面の上部には「紀念碑」と刻まれており、その下に小さな文字がいっぱいに綴られているものの、文字が風化してしまって判読できません。
碑の土台部分の左側には、小さく「部内 發起者一同」と刻まれています。
この碑の右側には説明板が建てられていて、それには碑面に刻まれた文字が写し取られています。その内容は、
「記念碑文
是の白川の里はしも広しとにはあらね、すめる三民の数こそ少けれ、このさとひとのかたみに信もて交り、むつひて、親み深きことは、他のさと人の鑑ともなり、この里人かとり作るものはし五穀を、始めて草の葉まてに、豊穣て、何処の品評会にも、類少きほまれとり、負はぬとはなしとかや、あはれこの美しき、さとをひらき初めし人はたそや、これそこの里人か、親とも、おやと尊み、親しむ、小村亀十郎ぬしにわありける、ぬしは紀伊国海草郡西和佐村に生れ、二十九歳ばかりの程、明治二十二年といふに、大和心の雄心ふりおこし、この北海道に移り来て、篠路の屯田兵となり、銃となり太刀佩くわさと、荒野の新墾あらすきかへす業とに、ひたふるに、心をゆたねて、年の十と世を大かたならぬ、労もてあまたのこかね貯へ、さて後明治三十二年十二月より、この里をは、開きはしめたるなりけりその後も、たてうめし雄こころ、いよいよ堅く、阿またの里人、あともひて開墾の業は、いふも更なり、学校建つることに医師聘く事に道路開鑿く業に、さては、杣木ひく業、炭焼く業まても、心を悩し、里人の為めとしいえは、身もたなしらにはせめくらひかねて、貯へたりし、こがねも、おほかたは、其事ともに、費したりとぞ、いふなるしかれこそ、このいみじき企ても、幾と世ならぬに喪なく、事なくなしをへて、今は里人も、ゆたかに、ぬしも、とみさかえて、よきさとの賑ふ里とは、なれるなりけれ、けにさと人の、心の直く正しく、忠こころもて、睦ひ、かはすことも、生業をいそしむ事も皆このぬしのおもむけに、よれることゝなもゆかしみ、おもはるゝこゝに里人等あひたはかりて、ぬしがこの心つくしの故よし碑にゑりつけて後毘に伝へむとて、そのふみ、おのれに、こはるまゝにかくなむ、さてうたひけらく
美那もとのきよきを見ればしら川は 千代も濁らぬ名にこそありけれ
明治四十一年四月三日 官幣大社札幌神社宮司 従六位 額賀大直
この碑は、明治四十一年一月、部落民岡栄氏等発起人となり、翁が白川の里の開拓に尽瘁したる功績を永遠に記念すべき事を協議一決、一致協力して部落の中央に幾千金を投じて建立したるなり。」
となっており、白川地区の開拓に尽力した小村亀十郎の功績を称えたものとなっています。この説明書きによると、小村は現在の和歌山市出身で、29歳だった明治22年に篠路村の屯田兵として北海道に渡りました。明治32年に白川の開墾に従事し、住民のために持ち金を使い果たしてまで道路の開鑿を行ったことが記されています。
0コメント