「札幌軟石の切り出し」。

(あしあと その267・南区の84・石山の13)

豊平川の河畔に広がる藻南公園から柏丘の崖に沿って坂を上っていくと、その途中の道沿いが公園の駐車場になっていて、その延長に札幌軟石がふんだんに用いられた公園が広がっています。

地が露わになった崖を見上げると、ところどころ穴が掘られていたりして、人の手が加えられていることがわかります。この場所はかつて札幌軟石の採石場だった所で、現在は採石の過程が復元された「札幌軟石の切り出し」の説明板が立てられています。

並んだ説明板には、写真とともに採石から搬送までの過程が順を追って描かれています。まず最初に、「堀切り(ほっきり)、つるうち」の過程の説明です。

「1.堀切り、つるうち

写真1:堀切り

札幌軟石を切り出す最初の仕事は、つるはしを振るって石に溝を掘っていくことです。深さ1尺5分くらいの溝を、建て3尺横10尺ほどの碁盤目のように掘っていきます。石工さんは、一日に30尺から40尺もの長さの溝を掘っていました。つるはしを振るう回数は、1日5万回にもなったと言われています。そのつるの跡は、今も壁面に残されています。「堀切り」と呼ばれるこの作業は、石工が一番初めに覚える仕事でした。

石切りを始める前には、現場を作る作業も必要でした。それは、石が凍ってしまう秋や冬の間の仕事でした。まず、表面の木や土を取り除きます。それでも、上の方の柔らか過ぎる石は、「悪石」と言って使えません。たくさんの石を取り除いてから、石を切り出していきました。壁際には、取り除いた土や石が小山を作っていました。

写真2:つるうち

溝が掘り終わると、次は石の下に金矢を打ち込んで石を浮かせます。金矢を打ち込むハンマーの柄には、良くしなるヤチダモの枝を使いました。そうすると、柄がしなるために手がしびれずにすんだのです。この仕事を「割り出し」と言います。」

次に、「小割り」の過程の説明です。

「2.小割り

写真3:小割り

割り出された石は、その場でもう一度、だいたい3才(1尺×1尺×3尺)の大きさに割ってから動かしました。石の上に、金矢を打ち込むだけで石に割れ目ができました。石の奥の方が上がって割れることもあるなどまっすぐにきれいに割るためには経験と勘が必要で、「割り出し」、「小割り」の仕事は一番難しい仕事でした。「堀切り」から仕事を始めて、「割り出し」の仕事ができる一人前の石工になるまでには5年くらいかかりました。

写真4:道具

手掘りには、たくさんの道具が必要でした。右から、「堀切りツル」、「ハンマー」、「金矢」、「野取りツル」です。何回も軟石に打ち付ける「つる」の先は、削れたり、曲がったり、折れたりすることもありました。石工さんは、1日に何回も道具を取り替えて仕事を続けました。「つる」の先は鋼になっていて、石工さんは、その日に使う道具を毎朝早くから鍛冶場で鍛えていました。これらの道具は、機械によって掘り出されるようになる1960年ごろまで使われていました。」

次に、「野取り」の過程と「採掘の歴史」の説明です。

「3.野取り

写真5・6:野取り

切り出された石は、周りがごつごつしています。その石を決められた大きさを形に整えます。特別に注文を受けた石以外は、3才(1尺×1尺×3尺)の大きさにしました。まず、定規を石の上と下において平行になるように線を引いて石の回りの形を整えます。「額縁」を作ると言います。この時、石の角が欠けてしまうとその石は全部使えなくなってしまいます。次に、石の面の真ん中の出っ張っているところ、「野」を「野取りツル」で取っていきます。「ツル」の跡が線のようにたくさん入るので「線を入れる」とも言いました。額縁を作ってから線を入れるまで、これらの作業を「野取り」と言います。

札幌軟石採掘の歴史

札幌軟石は、明治4(1871)年に開拓使のお雇い外国人、アンチセル、ワーフィールドによって発見されました。翌年から、本州から石工が集まり採掘が始まりました。木造の建物は火事になりやすいとして、開拓使によって石造建築が推奨され、多くの軟石が産出されました。しかし、小25(1950)年の建築基準法の制定により石積み建築が規制され、周囲が住宅街になるにつれ粉塵公害も発生し、1970年代を最後に石山地区では軟石の算出が見られなくなりました。」

最後は、「馬車鉄道」の説明です。

「4.馬車鉄道(馬鉄)

写真7・8:台車、馬が引く客車

軟石は石山から馬車や馬鉄に乗せられて、札幌市内中心部に集積され、その後、北海道中に運ばれていきました。明治43(1910)年には、軟石を運ぶために「札幌石材馬車鉄道合資会社」によって石山から南2条西11丁目付近まで馬車鉄道がひかれました。運ばれた先にも仕上げをする石工さんがいて、石を積み建物を造っていきました。札幌市内には、「札幌市資料館(旧札幌控訴院)」や「北1条教会」や農業用倉庫など軟石造りの建物が残されています。また、かつて軟石が運び出された馬鉄は、現在見られる市電へと発展しました。

ここに展示されている馬鉄は、資料が限られていたこともあり復元には困難が伴いましたが、「札幌軟石文化を語る会」をはじめ多くの方の協力のもと再現を試みました。

また、この看板に使われている切り出しの写真は、「石工の会」、常盤地区の石材業者の協力を得て、2004年6月に軟石の手掘りを再現した時のものです。」

かつては採石でにぎわった石山地区の歴史を、地域住民の手によってこのような形で残していくことは、札幌の建築文化の歴史を知る上でも大変貴重です。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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